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〇×大学カウンセリングルーム
今日は、6回目カウンセリングだ。6回目ともなると明日香は、ここに来るまでに緊張しなくなっていることに気づく。最近は気分がいい日も多い。今日子に言われたようにウォーキングは明日香の日課になっている。
「今日子先生、こんにちは」
「明日香さん、こんにちは、日に日に顔色がよくなってきているわね。」
「ありがとうございます。うれしいです。」
「今日からコミュニケーションの練習ね。」
「はい、お願いします。」
「明日香さんは、先週コミュ力がUPすれば問題は解決するといったわよね。」
「はい、そう思っています。」
「じゃあ、コミュ力が高いって具体的にどういうイメージ?」
そういわれて明日香は言葉に詰まってしまった。<そういえば、コミュ力が高いって具体的に考えたことなかったな>
「うーん、話が面白い人ですかね?話題が豊富とか、わたしは話が面白くないとか、どうしたいのかわからないって言われてたんです。」
明日香はこれまでの人間関係を思い出していた。人の顔色を窺って思ったことが言えない、いやなことも我慢しいてしまう。だから友達といても疲れることが多かった。
「じゃあ、まず明日香さんには、自己主張の方法を学んでもらおうかな。」
今日子は今回も明日香に新しい資料をくれた。その資料には、アサーションと書いてある。
■アサーションとは?
アサーションとは、相手とのかかわりにおいて、自分も相手も大切にするコミュニケーション技法です。 他者とアサーティブにかかわることで自分の気持ち、考え、信念などが正直に率直に、その場にふさわしい方法で表現されます。このような表現は、余裕や自信に満ちており、自分がすがすがしいだけでなく、相手にもさわやかな印象を与えます(平木, 1993)。
「アサーションが明日香さんのコミュ力UPに役立ってくれると思うわ。まず、明日香さんがコミュ力が低い原因は、自己主張が苦手なところだと思うの。自己主張が苦手な人がなぜ苦手かというと、
・相手に嫌われるのが怖い
・相手との対立が怖い
ことなどが原因として考えられるの。これって自分の本音はないがしろにして、我慢ばかりして、そんなんじゃストレスがたまってコミュニケーションを楽しめないわよね。」
「はい、その通りです。人に嫌われるのが怖いからいやなことも我慢してへらへら笑っていました。」
「うんうん、そうだったんだね。 そこをすこしずつアサーションで変えていこう。」
「はい!」
「じゃあ、具体的にアサーションを説明するね。」
今日子は資料の続きを説明した。
■アサーティブなかかわり方を理解しよう!
コミュニケーションの型には主に3つあります。
1、 ノン・アサーティブ(ひっこみ型)
自分の欲求よりも相手の欲求を優先します。対立は避けることができるかもしれませんが、不満は残るかも知れません。
2、 アグレッシブ(攻撃型)
相手の欲求よりも自分の欲求を優先します。自分の欲求は通すことができますが、相手と良い関係を築くことは難しいでしょう。
3、 アサーティブ(率直型)
自分の気持ちを率直に表現し、同時に相手の欲求も大切にします。お互いが納得する形を探すのでどちらかに負担がかかるということはありません。
「明日香さんは、このアサーティブ(率直型)で人と関わることで自己主張の苦手さを解消してコミュニケーションを楽しめるようになると思うの。」
「はい、なかなか難しそうですが。頑張ります。私は完全にノン・アサーティブ型でした。いつも自分が我慢したくせに不満ばっかりため込んでいました。」
「うん、今まではね、でも明日香さんは私とのコミュニケーションではきちんと自分がどうしたいかとか自己主張できている部分もあるわよ。」
「そうですか?ありがとうございます。」
明日香はまた今日子に褒められたことがうれしかった。褒められることでモチベーションが上がるのは明らかだった。<よし、今週はアサーションを頑張ろう。>
「じゃあ、練習してみましょう!まず私が例題を出すからアサーティブなコミュニケーションにしてみてね」
「はい、がんばります。」
「じゃあ、問題です。明日香さんが授業に出て板書したノートを同じ授業を取っている子が貸してと言ってきました。しかし、明日はテストがあります。明日香さんはそのノートで勉強したいので貸せないのが本音です。明日香さんはどう答えますか?」
「うーん、明日テスト勉強しなきゃいけないから貸せないの。ごめんね。でしょうか。」
「うん、そうだよね、でも明日香さん本当にそれ言える?」
「いや、ちょっと無理かな。」
「でしょ?いくら教科書的には正解でも自分が使えないと意味ないからね。明日香さんがそんなにさらっと断れるんだったらいいけど、キャラ的に難しいでしょ?アサーションは自分も相手も大切にするコミュニケーションだからね。例えば、こんなのはどう?」
今日子は例を挙げた。私もテスト勉強しなきゃいけないから1日は貸せないけど、
・すぐに返してくれるならコピーとってもいいよ。
・今スマホで写真撮っていいよ。
・今ぱらぱらっと見て大事なところメモってもいいよ。
「これだったら、相手も明日香さんも困ることなく済みそうよね。明日香さんもこんな感じなら相手の顔色を窺わずに断れるんじゃない?」
「確かに、そうですね。」
明日香は自分にもできそうだと思いうれしくなった。
「でもね、いつもアサーティブじゃなきゃいけないって言いたいわけじゃないのよ。ノン・アサーティブもアグレッシブも必要な時はあるわ。例えば、もし都合よく明日香さんのことを使おうとしている人がいる場合アグレッシブ型でびしっと断ることが必要な場合もあるよね。」
「はい。」
「だから、大事なことはいつもアサーティブじゃなきゃいけないってわけじゃなくて、これだとなんか義務っぽくなってできなさそうでしょ?大事なのは、バランスよく使っていくことなの。何かひとつに偏るんじゃなくね。」
<うん、それだったら少し頑張ればできるかも。>
「すこしずつ自分のコミュニケーションのパターンに入れていくことが大切よ。これは練習あるのみだからね。」
「はい、やってみます。」
「今までのパターンを変えることって勇気のいることだから本当に慎重にできることから出大丈夫。でも毎日少しずつでも変えてみることで数か月、1年後にはすっごく変われるからね。」
「はい」
「これまで6回のカウンセリングで、明日香さんは、ネガティブ思考を修正するワークやそのネガティブ思考のリフレーミングを学んできたわよね。少しずつ考え方が変わってきているとか感じることはある?」
明日香はそういわれて最近の様子を振り返ってみた。宿題で出されていたネガティブ思考のワークや失恋を乗り越えるノートワークも続けている。それらがだんだん慣れてきて生活の一部になってきていた。<そういえば、思い詰めて消えてしまいたいって思ってたのにそんな風に思うことはなくなっている。ネガティブループが始まったらウォーキングするし、SNSに感情を垂れ流すのもなくなったな。今思えば本当に恥ずかしい>
「消えたいとか死にたいとか考えなくなりました。つらい気持ちはもちろんあるけど、頑張りたい気持ちのほうが大きいんです。」
「そう、それはとてもいい方向に向かっているわね。自分のメンヘラは今どのくらい治っていると思う?10がものすごく治っている、0が全然治っていないとしてどうかな?」
「うーん、5くらいかな。少しポジティブになってきましたし、少しは外にも出られるようになってきたし。」
「そっか、じゃあこれからもっと人と関わる機会を意識的に増やしていくといいかもね。」
「そうですよね。自分だけじゃアサーションの練習もできないし、何か考えてみます。」
「うん、この調子で頑張ろう。」
明日香はまた前向きな気持ちで帰っていった。今日子も明日香の成長を感じている。
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今日子はまた資料を取り出して明日香に見せた。その資料はネガティブ思考を治すと書いてある。
<自分にぴったりだな。私って昔からネガティブで暗くて人から嫌われてきたもんな>明日香は憂うつさが増すような気分になった。
「明日香さん、ネガティブ思考って悪い物じゃないのよ」
今日子の言葉に明日香は驚いた。
「え?でもネガティブ思考を治すって書いてありますけど」
「うん、そうね。でもネガティブ思考にもメリットはあると思うの。じゃなきゃ、人間意味のないことはしないでしょう?ちょっと考えて見てよ」
「う〜ん。そうですね」
明日香はそう言われてもなかなか思いつかない。<ネガティブ思考の良いところってある?しんどいし>、そう思いながらも一応今日子の質問に答える。
「え〜と、用心深くなるところですかね」
「おっ良い答えだね。」
今日子にそう言われ、明日香は胸をなで下ろした。<この手の質問は苦手だ、間違っていたら恐いもんね>
「何が言いたいかというとね、結局バランスなのよ。楽観的過ぎても問題は起こるし、ネガティブ過ぎてもまた問題になる。明日香さんの今の状態は希望が見えない状態よね。絶望している時には、極端に思考のバランスが崩れた破滅的思考が強い状態になりやすいの。こういう思考には、確かな根拠もないのに物事を極端に悲観してしまう「結論の飛躍」と呼ばれるの」
「結論の飛躍?」
「そう、結論の飛躍思考っていうのは、妥当な根拠もなしに否定的な結論に飛躍してわかるはずのない将来を決めつけてしまうことをいうの。
例えば、 明日香さんがさっき言った
・自分にみたいなメンヘラにこの先彼氏なんて出来るはずがない。
・それに達也みたいないい人は絶対に他にいない。
・自分はこのままひとりぼっちだ。
これって根拠はあるかしら?」
「根拠?はっきりとしたものはないです。ただなんとなくそうかなぁと」
「そうでしょう?きっとこれまでそうだったからとか、そんなところからその考え方はきているんじゃない?
明日香はどきっとした。<確かにそうだ>
「明日香さんは、これからカウンセリングも受ける、大学にも復学する。これまでとは違う状況になるんだから考え方も違って当然よね。それなのにこの先これまでと同じ未来になるかしら?」
「はい、たしかに。うーん」
「じゃあもう少しやってみよう。自分みたいなメンヘラにこの先彼氏なんて出来るはずがない。この思考で次の5つの質問に答えてみて」
明日香は今日子に渡された資料を目にした。その資料は書き込み式のワークシートになっていた。一番始めにターゲットとなる思考< >と書いてある。ここに<自分みたいなメンヘラにこの先彼氏なんて出来るはずがない。>を入れるのか。次の段階に進むとこの思考に対して5つの質問に答える形式になっている。まず一つ目から考えて見る。
①その考えがそのとおりだと思う理由は?
明日香の回答:メンヘラを好きになる人は少ないと思うから。
② その考えと矛盾する事実は?
明日香の回答:少ないけれど、ゼロではない。
③ その考えのままでいるデメリットは?
明日香の回答: 何も変化しない。気分が悪くなるだけ。
④ 親しい人が同じ考えでいたら何と言ってあげる?
明日香の回答: 世の中にはたくさんの人がいていろいろな趣味の人がいる。一生彼氏ができないなんてわからないと思うよ。
⑤ 自分にどんなことを言ってあげると楽になれそう?
A さんの回答:今は新しい恋愛なんて気分になれないかもしれない。でも一生彼氏ができないなんてあきらめなくて良いと思うよ。
明日香は自分の考えはやはり極端だったなと感じた。
「どうだった?結構書けているじゃない。」
「はい、一応、③番までは自分で書いていて落ち込んできましたが、進んでいる内に一生できないなんてわからないよなと思いました。100%信じられているわけじゃないけど」
「うん、いいね。今の時点で100%信じることなんてできなくて当然だよ。ただ大事なのは、考え方はひとつじゃないことに気づくことが1番大事なの」
「うん、たしかに」
「このワークはね、思考の振り返りといって偏った思考をバランスの良い考え方にする方法を目指したものなの。心理学の中では、認知療法と呼ばれる方法よ。思考のクセは根強いから何度も何度もチャレンジしてみると少しずつ思考が変化してくるわよ」
<なんかめんどうくさいな>
「面倒くさいって思うかも知れないけど、ネガティブなところを治したいなら効果はあるわよ。」
明日香はまた自分の心を見透かされたようで驚いた。続けて今日子は、
「じゃあ今日はそろそろ終了時間だから来週までの宿題を出すわよ」
「え?もう?」
カウンセリングは1時間だがあっという間だった。
「週に一度のカウンセリングじゃ出来ることは限られてる。やっぱり自分がどのくらい努力するかにかかっているからね。」
そう言ってどーんと明日香の前に思考の振り返りワークシートを置いた。
「今日子先生、これ全部やるの?」
「当然でしょ?どうせあなた暇なんだから」
今日子先生のカウンセリングは思った以上にスパルタなようだ。でも明日香は今日子について行けば今と違う状況になるのではないか?そう感じている。
■
明日香は、今日子のカウンセリングを週に1度受けることを決めた。カウンセリングの目的は、今の状態から回復してきちんと大学に復学すること。前回のカウンセリングから1週間、今日は2回目のカウンセリングにやってきた。
「こんにちは、失礼します」
明日香は元気のない声で答える。
「こんにちは、明日香さん、ちゃんと来たのね」
今日子ははっきりとした元気そうな声でそう言って明日香にソファに座るように促した。大学のカウンセリングルームは、簡素で結構狭い、でも今日子がいるだけで華やかな空間になるから不思議だ。さっそく今日子は明日香の方を見て質問した。
「明日香さん、今週1週間はどんな風に過ごしていたの?」
正直、まともな過ごし方はしていない。明日香は口ごもり
「えーと、、、」
「明日香さん、そんなきちんと生活しているなんて期待していないからね」
今日子は笑った。
「適当に過ごしていました。TVを見たり、スマホを見たりして」
「そう、じゃあ何を考えながら過ごしていたの?」
<何を考えながら?難しい質問だな、普段何を考えることが多いだろう?>
明日香は自分が考えていることを振り返ってみた。結局ほとんど達也のことだ。達也とまた連絡を取りたい、達也とどうやったらやり直せるだろう?自分がこうしていたら今頃こんなことにはなっていなかったのに、そんな過去の後悔ばかりが思い浮かび、毎日泣いて過ごしている。
「付き合っていた彼のことを考えることが多いです。自分がきちんとしていたら今頃こんなことにはなっていなかったのにとか、あとは、このままずっとひとりぼっちなんだろうか、そんなことを考えています。」
「そっか、明日香さんはこれからずっとひとりぼっちだっておもうんだ。でもそれって本当かな?そりゃもちろん失恋は辛い。でもたったひとりにフラれたことで一生ひとりぼっちなのかな?」
「わたしなんて友達はいないし、親からも見捨てられているし、自分にみたいなメンヘラにこの先彼氏なんて出来るはずがないです。それに達也みたいないい人は絶対に他にいない」
「そう、そんな風に考えているのね。そしてその考えをずっと巡らせて一日を過ごしているの?」
「そうです。」
「それは健康に悪いわね」
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「わたしは相当取り乱して悪化させていますね。とても心理的離脱なんてできそうにないです。」
「うん、でもその気づきが回復への第一歩よ。失恋をした時はみんな混乱するのが自然で、考え方が極端になりがちだからいつもの自分らしい行動がとれなくなる。少しずつ気持ちを整理して前向きに失恋を乗り越えていきましょう。」
「はい、やっぱり簡単ではないんですね」
「そうね、やっぱり何かを乗り越えるって簡単ではないよね。でも、
明日香さんはね、今本当に真面目に苦しんでいる。それはとても回復にとって必要なことよ。失恋というしんどくて当然のことをきちんと消化しようとしてる。だから自分のことをしつこいとか、バカだとか思わないでいてあげてね。しっかりとその気持ちを感じて消化していくことが回復への近道だからね。」
「はい(泣)」
明日香は今日子の言葉を聞いて涙がこぼれた。
「今日話した心理的離脱は理想的なコーピングだけど、頭でわかっていてもすぐにはできないことってあるよね。まずは、自分の気持ちを正直に表現することが大切よ。明日香さんは日記って書く?」
「うーん、日記は書く習慣がないです。」
「そっか、じゃあ明日から1週間の期限付きでこのノートに今の失恋の辛さや彼への恨みの気持ち、後悔の気持ちなどを書いてみようか?」
そういって今日子はとてもきれいなグリーンの表紙のノートを明日香に手渡した。明日香はノートを受け取り、ページを開く。当然ながら何も書かれていない真っ白なページが続く。
「わかりました。やってみます。」
「うん、これが今週の宿題ね。この宿題をやるときは、1日30分なら30分と時間を決めてほしいの。だらだら書くのではなく、時間を決めて書く。そして、どんな汚い言葉でもいいから正直な気持ちを書くこと。これがこの宿題の決まりよ」
「どんな汚い言葉でも・・・ですか。」
「そう、相手を恨む気持ちも大切なあなたの感情よ。だからどんな言葉でも自分で批判的にならずに心の中から出してあげることが大切なの。」
「わかりました。やってみます。」
「うん、来週そのノートをもってきてね」
「はい」
「あっそうだった。そういえば、明日香さんの趣味ってなんなの?」
「えっ趣味ですか?アニメを見るとか、好きなアーティストのライブをネットで漁ることぐらいですかね。」
「うん、いいじゃない。もしね、その宿題をしていてとても気分が悪くなった時や、しんどくなった時はそういった好きなことをやって気分を落ち着かせてね。」
「はい、わかりました。」
時間になったので、第4回目のカウンセリングは終了した。明日香の問題は解決はしていないが、来た時よりも心が軽くなっていた。明日香は今日から今日子から出された宿題をやってみようと思っている。
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(~~~~~♪)
スマホのアラームが鳴った。スヌーズ機能で何度目かのアラームだった。今は朝の10時半、朝は気分が憂鬱でなかなかベッドから出ることができない。天気の悪い日も朝から憂鬱で一日中余程のことがない限りはベッドから出ることができない。明日香は達也と別れて以来ずっとこんな調子だ。正直辛い。達也に拒絶されたこともつらいが、この症状も本当につらい。
今日子のカウンセリングを受け始めて定期的に悩みを話す場所ができたのは明日香にとっては良いことだけど、このしんどさを乗り越えることができるのだろうか?
達也は明日香にとって初めての恋人だった。明日香は、これまで好きな人ができても<自分なんかどうせ相手にしてもらえない>と自分から動くことはなかった。しかし、達也とは意を決して参加したサークルの新歓コンパで隣同士になり、たまたま同じアニメが好きで意気投合した。その場で連絡先を交換し、一緒に出掛けるようになり、その後達也から告白されて付き合うことになった。それからは、恋人と過ごす初めての誕生日、クリスマス、何もかもが明日香にとっては新鮮で楽しかった。自分には無縁だと思っていた恋愛をしていることが信じられなかった。うまくいっていた日々が懐かしい。今も夜は大声で泣いてしまう。今は、何をしていても楽しめず生きた心地がしないのが現実だった。
<こんなに失恋のしんどさを抱えていたら復学なんてできない。失恋の乗り越え方を今日子先生に相談してみよう>明日香は明日のカウンセリングで失恋の乗り越え方を今日子に相談することにした。
〇×大学カウンセリングルーム
「こんにちは」
「こんにちは、明日香さん。今日は顔色が悪いわね。寝不足?」
明日香は青白い顔をしている。目にはクマができ、急いで出てきたのでメイクもほとんどしていない。
「はい、まだあまり眠ることができないので・・・」
「そう、今日は何か話したいことはある?」
今日子は明日香が何か話したそうなことを察知したのか、いつもとは違う質問からはじまった。明日香は重い口を開く。
「はい、今日は、今日子先生に聞きたいことがあります。私が失恋をしたことはお話しましたが、本当にこの辛さを乗り越えられるのでしょうか?」
「そうか、そう来たか」
今日子は明日香が自分の問題に逃げずに立ち向かおうとしていることを関心いるようだ。今日子はいつものように明日香に資料を手渡した。
そのタイトルは、「失恋の乗り越え方」とある。
「失恋っていうのはね、やっぱり誰にとってもつらいものよね。経験した人の多くは悩んで苦しむ。でもだからこそ、失恋の乗り越え方も研究されてきたの。早速紹介するわね。
宮下(1996)の研究では、失恋した時の乗り越え方について大学生476名を対象に研究が行われました。この研究に参加した人には、親密な異性関係がある一定期間続いた後に、別れた経験を思い出すように求めました。このときに、片思いでの失恋経験は入っていません。
「そして、どのようなコーピングをとったのかが分類されたの。」
「コーピングってなんですか?」
「あぁコーピングっていうのはね、解消法のことを意味するの」
失恋のコーピングは4種類に分類された。
1.未練型コーピング
別れたことに後悔し、復縁しようとした。
2.拒絶型コーピング
相手のことを恨み、考えないようにした。
3.回避型コーピング
失恋が自分の役に立つと思うようにした。次の恋を見つけようとしたり、他のことに夢中になった。
4.心理的離脱
相手と別れた事実を冷静に思い出し、相手の幸せを祝福することができるように努力する。
「4つの中で明日香さんはどれに当てはまると思う?」
「未練型コーピングですね。あとは、拒絶型コーピングも少しあるかな」
「ふんふん、じゃぁ主には未練型コーピングで拒絶型にも当てはまるってことね」
「はい。」
「じゃあ先に続けるわね」
ストレスに対して柔軟に対応できる「首尾一貫感覚」という概念があります。人生で起こる様々な出来事にうまく対応して、自分なりの一貫性を持たせて行動できる感覚のことを言います。簡単に言うと、「大変なことがあってもなるべく自分らしくいること、自分を保つ」感覚であることを意味します。そしてこの首尾一貫感覚と失恋時の4種類のコーピングとの関連を調べました。その結果、
・「心理的離脱」が首尾一貫感覚と正の相関が認められました。つまり、心理的離脱コーピングをとればとるほど自分を取り乱さずにいられるということです。
反対に
・「拒絶型コーピング」と首尾一貫感覚と負の相関が認められました。つまり、拒絶型コーピングを取れ取るほど自分自身を取り乱してしまい、ストレス状況が悪化してしまうということです。
「この結果から失恋した後も、相手を祝福できたり、仲が良かったときのことを冷静に思い出すことができるほど、自分を追い詰めることがなくなるという結果なの」
「はぁ・・・」
明日香は大きなため息をついた。
■
カウンセリング当日
〇×大学カウンセリングルーム
「明日香さん、はじめましてカウンセラーの今日子です。よく来てくれたわね。」
「はじめまして」
明日香は今日子を見て驚いた。今日子はロングヘア―が似合う長身のさばさばとした美人であった。明日香はカウンセリングを受けるのは初めてだったが、もっと暗い地味な感じの女の人がカウンセラーのイメージだったので驚いた。少し雑談をして緊張もほぐれたところで今日子は言った。
「明日香さん、今だいぶメンタルの調子が悪いみたいだけど、困っていることはある?話せる範囲でいいから話してみてくれない?何か助けになることができればと思うから」
そう今日子に言われ、明日香は大学で友達とうまくいかなくて休学したこと、家族と折り合いが悪いこと、達也と別れたこと、今が過去最高に悪い状態でこれからどう回復していくのかわからず、このまま苦しみが続いていくのであれば、もう消えてしまいたいと考えていることを思わずノンストップで泣きながら話してしまった。
「そうなんだ、とても大変な状況なのね」
今日子は中座して何か資料を持ってきた。
「明日香さんの今の状況はね・・・」
Alloy et al., (1989) の研究を用いて説明した。
「Alloy博士たちの研究グループでは、今の明日香さんのような絶望したときの抑うつ症状を絶望感抑うつと呼んで、その症状がまとめたの。例えば、人が希望を持てない状況ではこんな感じの9つの症状がでてくるの」と明日香に説明した。
- 自発的反応の遅れ・・・自分から何かしようとする気がなくなる。
- 悲しみ感情・・・悲しい気持ちを感じることができない。
- 自殺・・・死にたいという気持ちが出てくる。
- エネルギー欠如・・・何をするにも気力が足りない。
- 無気力・・・何もする気が起きない。
- 心的運動の遅延・・・感情が鈍くなる。
- 睡眠障害・・・眠れない。
- 集中困難・・・集中できない。
- 気分の悪化・・気分が憂鬱、すっきりしない。
「今の明日香さんの状況によく似ているでしょう?でもそういう風になるのは普通の反応で何もおかしいことじゃないのよ」
明日香は今日子からそう説明されて自分の状況が異常ではないことに安心感を覚えた。<でもこの先どうすればいいのだろう。本当にこの辛さはどうすればいいのだろうか?>そんなことを考えていると、その心を読んだかのように今日子がまた口を開いた。
「明日香さんは、こんな状況から回復したことないわよね。だからこの先どうすれば元の状態に戻れるのか、回復できるのか不安なんじゃない?」
その通りだったので、なにも言わず明日香はうなづいた。
今日子はまた別の資料を取り出して
「先がわからない状態で何かするって怖いわよね。明日香さんはカウンセリングを受けながらこんな風な回復の道をたどるはずよ。フィンクの適応理論を使って説明するわ」
明日香はきょとんとしながら今日子のほうを見た。
「フィンクの適応理論っていうのはね、危機を経験した本人がその状況を受け入れていくプロセスなの。そして、そのとき支援を求めた場合にどのように支援者が苦しんでいる人に寄り添っていくのかを説明したものなの」
そう説明されても明日香はさっぱりわからない。今日子はすぐに明日香が理解していないことに気づき、
「じゃぁ具体的に説明するね」
そういって資料を見せた。
資料:危機を経験した本人の適応までの過程
・衝撃・・・・・・危機を経験するとパニック状態になる。
・防御的退行・・・その出来事は現実には起こらなかったのではないかなどと考える。
・承認・・・・・・怒りや悲しみなどの感情が生じる。
・適応 ・・・・・・新しい価値観を見出す。
「これが危機を経験した人の回復までのプロセスよ。この理論から言うと明日香さんは今は“衝撃”のところにいるかな」
そして、その危機を経験した明日香とカウンセラー今日子は以下のように寄り添うことになることを説明した。
「そして、カウンセリングを受けるとカウンセラーは明日香さんこんな風に明日香さんの手助けをするのよ」
といってまた資料を見せた。
資料:危機を経験した人と関わる支援者の過程
・衝撃・・・・・・・・まずは、安全を確保し、静かに見守る。
・防御的退行・・・・・本人を否定することのないようにありのまま受け止める。
・承認・・・・・・・・本人が問題を解決できるように援助する。
・適応・・・・・・・・努力したことを認め、成果をフィードバックする。本人のモチベーションが高まるよう支援する。
「じゃぁ私が衝撃のプロセスにいるってことは、今日子先生は、安全を確保し静かに見守るっていうことですか?」
明日香は聞いた。今日子は、
「そう、この理論でいうとそうなるわ。この理論は看護の現場などでよく使われているの。必ずこの通りに進む場合ばかりじゃないけど、今の先が見えなくて怖い思いをしている明日香さんが見通しを持つきっかけになればいいと思うわ。」
そう、やさしくも自信の感じられるまなざしで今日子は答えた。明日香は今日子のカウンセリングをうけてみようかなと思えるようになった。
■
「もうお願いだから別れてくれ」
「どうして、やだ、理由を教えて?わたし達也がいないと生きていけない。だめなところ治すからお願い」
「だからもうそういうところだよ。ごめん、もう付き合いきれない。もう連絡もしないで」
そう言われて2年間付き合った彼氏にありがちなことを言われて3か月前に振られた。後悔ばかりが頭に浮かんで毎日苦しい。ごはんものどを通らず、なかなか眠れず毎日ごろごろしてすごしている。
明日香21歳、1年前から大学休学中、彼氏なし、友達もいない。家族仲も悪い。大学の友達には影でメンヘラちゃんと呼ばれているのを知っている。小さいころからいじめられっ子で暗い性格だった。大学に入ってからは何とかこれまでの自分を変えようと頑張ってみたけど、自分を変えることはなかなか簡単じゃなく、もともと苦手だった友達付き合いに失敗してSNSでしんどさを垂れ流してしまい周りにはメンヘラ認定されてしまった。それからどうにも大学にいづらくなり大学を休学してからは、親には邪魔者扱いされ、きょうだいにも外では話しかけるなと言われた。
そんな中、同じ大学で出会った達也だけが心の支えだった。達也とは付き合ってからすぐに明日香が達也の下宿に転がり込み同棲を始めた。いつも一緒にいて、一緒にいられないときには1日何度も連絡してしまった。ラインの返事が来ないと浮気しているのか心配で寝られなくて、達也が酔いつぶれて約束の時間に家に帰ってこられなかったときには朝まで寝られず、達也が帰ってきてから明日香は泣きわめいて怒り、達也にGPSのアプリをインストールするよう求め、いつでもどこにいるのか監視できるようにした。達也は、
「大学に戻れば?」
「バイトでもすれば?」
と何にもしない明日香に外に出るよう勧めていたが、
「そのうちね~」
などと軽く受け流していた。
明日香は、達也が大学を卒業したら結婚すればいいと思っていたので大学を卒業することもバイトに行くことも本気で考えてはいなかった。明日香は、達也と将来結婚して子どもを産んで、専業主婦として生活すればよいなどと将来のことばかり考えていた。当然そういう未来になると思っていたのに突然の別れである。
達也に別れを切り出されてから明日香は、
「将来も約束したのに無責任だ」
「こんなに好きにさせたんだから幸せにしてください」
などと何度も何度もメッセージを送り、ラインをブロックされれば、SMS、メール、手紙すべての連絡手段を使った。SNSにも未練がましい思いを垂れ流した。
そうした毎日を1か月ほど続けてついに疲れ切ってしまいもう達也に送る言葉がなくなってしまった。大学を休学している明日香には1か月に1度大学の保健室で面談を受けることが約束されている。最近は、ドタキャンし続けていたのでとうとう大学から親に連絡が入り、親から激怒されたことで面談に行く羽目になった。
〇×大学保健室
「明日香さん、久しぶり、顔色がよくないようだけど、どうしていたの?」
「なかなか来られずすみませんでした。とくに・・・なにも」
「そう、じゃあ、簡単なアンケートに答えて帰ってね」
「はい」
保健室のスタッフからそういわれて、明日香は渡されたアンケートに答えた。簡単な健康診断のようなものだった。明日香がアンケートに答えた数分後、保健室のスタッフから
「ちょっとアンケートの結果があんまりよくなくて心配だからこれから毎週大学のカウンセリングを受けてください。」
と唐突に言われた。
何度もカウンセリングを進められてきた明日香だったが、他人にわざわざ話を聴いてもらうなんて気が進まず、断り続けていた。明日香には達也がいたし、話し相手には困らなかった。でも達也はもういない。親にまた連絡されてもめんどくさいので明日香は素直に従うことにした。
<いやになったらやめればいいし>
そんな投げやりな気持ちでカウンセリングを受けることに同意した。